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2017.07.21 (Fri)

元気な企業はどこが違う?成功企業の戦略とは(第33回)

スズキが無謀と言われたインド進出で成功した理由

posted by 村上 哲也

 日本の自動車メーカーは、2016年の世界市場の販売台数で1位のトヨタグループ(トヨタ、ダイハツ工業、日野自動車)を始め、10位までに4社(グループ)が入っています。日本の自動車メーカーは世界トップレベルばかりで、ほとんどが海外進出をしています。その中には進出した国の自動車市場形成に重要な役割を果たしたメーカーがあるほどです。

 前述の販売台数で世界10位を記録しているのが、静岡県浜松市に本社をおくスズキです。スズキは、2016年のインドの自動車市場において37.9%という圧倒的なシェアを占めています。世界1位のトヨタグループでさえ、インドでのシェアは3.6%に過ぎません(インド自動車工業会調べ)。スズキは国内の軽自動車市場で、34年連続販売台数1位を記録するなど、限定された市場で多くの成功をのこしてきた企業です。スズキはどのような戦略で成長と成功を成し遂げてきたのでしょうか。

スズキのNo.1戦略は価格破壊からだった

 スズキは、糸を布にする織機メーカー、鈴木織機製作所として、1909年に静岡県で創業します。第二次世界大戦後の1952年にオートバイメーカーへと転身し、1954年には鈴木自動車工業に社名変更。1955年には自動車メーカーとなり、1990年に現在のスズキへ社名変更しています。

 自動車はナンバー登録をする際に、車体の大きさやエンジンの排気量などによって種別されます。その中に小型で自動車税が安い軽自動車という規格があります。その軽自動車でスズキは他社よりも低価格という路線を採用し、市場1位の販売台数を1973年から2006年までの34年間維持してきました。

 低価格を維持するためにスズキは、工場内の電気代や原材料など各分野で徹底的なコストダウンを図っていました。1978年には47万円でアルトという軽自動車を販売します。当時の軽自動車は60万円が相場という常識を覆した商品で、スズキの軽自動車市場No.1というポジションの礎となります。

軽自動車市場No.1からの陥落

 スズキは軽自動車市場のトップとなりましたが、軽自動車市場は逆に縮小傾向となっていきます。日本の経済成長に伴い、販売価格や自動車税が安い軽自動車よりも、室内空間にゆとりのある普通車へと嗜好が変化したためです。また、軽自動車は欧米などでは税制や安全基準などが違うため、輸出はほとんど行われていません。スズキも日本国内の軽自動車のみで企業を成長させ続けるのは難しいと判断し、普通車市場にも注力を始めます。

 ところが軽自動車に普通車という2面の経営戦略にシフトすると、トヨタグループの一員となったダイハツ工業に2007年の軽自動車販売台数首位の座を奪われてしまったのです。

 一定の利益を上げた企業が、さらなる利益を求めて拡大戦略を取ることは珍しいことではありません。それは相手より資本が大きな企業が取る戦略なら正攻法ですが、小さな企業の場合は自社の資本を2つに分散することになり、逆に相手に付け入る隙を与えてしまう可能性があります。スズキの拡大戦略は、その点で裏目に出てしまいました。

 ここでスズキは、低価格とは違った魅力を持ったハスラーという軽自動車を発売します。アウトドアなどのレジャーで使える軽自動車というコンセプトが人気となり、2014年に再び軽自動車の販売台数で首位となります。資本の分散化を商品企画力で補ったスズキでしたが、軽自動車市場ではダイハツ工業との一進一退の攻防を今も続けています。

自動車市場が皆無のインドに進出というギャンブル

 1970年代半より日本の自動車メーカーは、輸出だけでなく海外に生産工場を進出させるなどグローバルな展開を行ってきました。世界のトップクラスの自動車メーカーたちと比較すると、スズキの資本力は大きなものではありません。1981年にアメリカのゼネラルモーター(以下GM)との業務提携を機に、他社との提携で海外進出を狙います。その後、ドイツのフォルクスワーゲンとの包括提携に切り替えます。

 世界トップクラスと提携する一方、スズキは1982年にインド政府の誘致による独自の海外進出を考えていました。当時のインドは国民所得が低く自動車市場は皆無に近い状態でした。インド政府は低価格な国民車を一緒に開発・生産してくれるパートナー企業を探していたのです。スズキがそれを知ったのは募集締切後だったのですが、名乗りをあげます。後日、インド政府から日本で話し合いたいという打診が届きます。しかし打診された日は、スズキの社長が提携開始したばかりのGMに訪米する直前の日でした。スケジュールを調整し、空港に向かう直前にスズキの社長とインド政府は話し合いの場を持ちます。それは数十分の予定だったのですが、3時間近くに及んだそうです。

 そしてスズキの社長が数日後に帰国すると、帰っているはずだったインド政府が浜松のスズキ本社へ訪れたのです。インド政府は他社とも交渉したのですが、インドで国民車を共に開発してくれるプロジェクトをきちんと聞いてくれたのはスズキだけだったそうです。インドは中国に匹敵する人口増加と、それに伴う経済成長を予測した統計資料があったのですが、当時は自家用車を所有できない所得層が多くを占めており、他社にとって、進出は大きなギャンブルに見えたようです。

 一方スズキは海外に小さな市場でもいいからNo.1を開拓したと願っていた時期でした。スズキはインドの経済成長という青写真に賭けました。

 スズキの進出から35年を経た現在のインドは、経済成長と中国を凌ぐ人口増加を見せる国として世界経済から注目される存在となっています。インドの自動車市場は販売台数でドイツ、イギリスを抜き、世界5位にまで成長しました。近年はフォルクスワーゲンなどがインド進出を狙いましたが高い関税もあり、思うようにシェアを伸ばせていません。一方のスズキはインド国内で生産しているために関税がかかりません。

先見の明がないのにインド進出、その裏付けは

 低価格戦略とインド進出を決めた当時の鈴木修社長(現会長)は、2007年のあるシンポジウムで「(インド進出を)先見の明があると言われるが、そのようなものはなかった。大手と同じように先進国に進出したかったが、軽自動車を作って欲しいという国はなかった。別に先見の明があったわけではない」と語っています。

 しかし先見の明がなくともスズキには、軽自動車で培った低価格で開発するノウハウはありました。スズキは軽自動車をインドの国民車へとローカライズすることで、インドのモータリゼーション、自動車産業の創生を成し遂げることができるという自負があったからこそ進出を決断したのでしょう。35年前にも無謀といわれたスズキのインド進出を裏付けていたのは、技術力だったのです。

 スズキは2016年の販売台数で世界10位、国内6位という業績です。現在、世界の自動車業界は、シェア争奪のために提携による再編を繰り返しています。大グループに属さない自動車メーカーは生き残りをかけて奔走しています。そのなかで自分の武器を活かせるマーケットを見つけることが資本の小さい企業の生き残り術の1つであることを、スズキが行なったNo.1戦略から見て取ることができます。

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村上 哲也

村上 哲也

コンサルタント兼ライター。ゼロベースでのコンサルタントには定評があり、担当する顧客とは「戦略」から始め「戦術」まで実行させる本格派。2013年より本業の合間にライター業務も行っており、コンサルタント関係に留まらない幅広い記事の記載を行っている。
http://midorinooka2014.wix.com/business-consulta-jp

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