小学校の卒業文集にて、将来の夢にお笑い芸人と政治家を掲げていた東国原英夫氏は、大学卒業後にビートたけし氏の弟子となり、2007年には宮崎県知事に就任することで、2つの夢を本当に叶えてしまった。
その顛末については前編で取り上げたが、知事となってからは、いかにも“お役所”といった組織を変えるために相当な苦労があったという。そして、2012年に国会議員になった後は、政治家としての使命と、組織のしがらみに頭を悩ませることになる。
苦境の中で、東国原氏はどのような道を選んだのか。後編では彼の政治家としての顔に迫る。
四面楚歌の状況が、かえって有権者の好感を生む
──前編では、2007年の宮崎県知事選に勝利するまでの話を聞きました。下馬評では劣勢だった東国原さんが、選挙に勝った要因には何があったのでしょうか。
メディアには「当確の可能性ゼロ」「泡沫候補」といったネガティブなことを報じられましたが、私自信は、最初から最後までまったく負ける気がしませんでした。なぜなら、政策と、それを県民に訴える演説では、他の候補者達には絶対に負けないという自信があったからです。
「泡沫候補」ですから、最初のうちは有権者の反応も薄かったのですが、頭を低くして一件一件有権者のもとを訪ねて行き、手を振ってくれる人がいればすぐに選挙カーから降りて、走って会うといったことしているうちに、一週間ぐらいで風向きが変わりました。「なんかあいつ一生懸命で面白いぞ」とか、「凄い情熱を感じた」といった評判が広がっていって、次々と支持を得られるようになっていったのです。
――ライバル候補たちも、東国原さんの勢いに危機感を抱いたのではないでしょうか
対立陣営は、最初は私に無関心でしたが、やがて裏でスキャンダルを流されるなど、足並みを揃えて妨害するようになってきました。
だけど、私のスキャンダルなどいまさらなので、誰も興味など示しませんよ(笑)。むしろ四面楚歌の状況での一匹狼での選挙活動に県民の方々もだんだんと気付いてくれて、そこも支持されたことで、最終的に当選することができました。
改革は豪華な椅子を変えることから始まった
──2007年に宮崎県知事に就任し、4年間任期を務めました。知事時代に特に力を入れたことは何でしょうか。
それは間違いなく「職員の意識改革」ですね。何せ、知事選の選挙のきっかけが、官製談合(公務員が不正入札に関わる談合のこと)でしたから。私が知事に就任した時の、県民の県政に対するイメージは最悪の状況でした。
まずは、そんな腐った県政を当たり前としていた県庁内の空気を変えることが自分の最大の役目なのだと肝に銘じ、自ら手本を示すようにしました。
たとえば、「知事公用車は高級車で、知事公舎も豪華でなければいけない」という、間違った認識を打ち崩そうと、ごく普通の車を公用車とし、公舎でなくマンションに住み始めました。知事の椅子も豪華なものはすべて取っ払い、小学生や中学生が使っているのと同じ机と椅子に取り替えてしまいました。
──従来のやり方をそこまで変えるとなると、周囲の反発もあったのではないでしょうか
“この知事、ちょっと頭がオカシイのでは?”と思った職員もいたようですが、そのぐらい極端にしなければ、あの頃の職員の意識を変えることなどできなかったでしょう。
当時は、20年、30年と勤務している職員は、完全な“お役人”体質でした。たとえば部長クラス以上の役職に就いている職員は、「知事は天上人であり、自分達のような上層部としか話しをしない」と思い込んでいました。とはいえ、部長クラスに業務の話を聞いても、誰もが細かいところは知らないと言うんです。ならばと、部長クラスではなく、業務に詳しい課長クラスや係長クラスの職員と直接話しをするようにしました。
談合の構造ができあがっていた都市をどう変えたのか
──宮崎という、地方都市ならではの問題もあったのでしょうか
職員の意識改革とも関係してきますが、県政に対して県民が不信感を抱く原因の1つであった官製談合をなくす仕組みづくりには、本当に苦労しました。当時の宮崎では、県庁内だけでなく、外部の委託先業者も含め、談合の構造ができあがってしまっていました。
そうした構造を打破するべく、とにかく入札改革に力を入れました。不透明な指名競争入札を一般競争入札へと変え、談合情報を積極的に収集し、確認作業を行うことで、談合が起きにくい環境を作りました。
もちろん、これまで指名競争入札の恩恵を受け続けてきた地元業者などからは強い反対がありました。しかし、そこは断固として譲りませんでした。
こうして職員との意思疎通や入札改革などを進めるうちに、官庁内の古いヒエラルキーが崩れ去り、職員の意識も少しずつ良い方向へと変わっていきました。
──東国原さんが宮崎の知名度アップのために、知事自ら広報活動に積極的に飛び回ったことでも話題になりました。特に、「(宮崎を)どげんかせんといかん」というフレーズは、2007年の流行語大賞にも輝きました。こうした話題づくりも、狙い通りだったのでしょうか。
宮崎県の認知度が非常に低かったため、地域のブランド力をアップすることで、まずは県民の自信を回復するよう、意識的に努めました。メディアやイベントなど、様々な場を活用して「宮崎」を絶えず発信し続け、県産品をトップセールスすることで、県の潜在能力を引き出せたと思っています。
──東国原さんが当時テレビで宮崎を宣伝していた姿は、よく覚えています。こうした取り組みの結果、県民の意識も変わったのではないでしょうか
それは大きく変わったと思いますよ。私は「県民総力戦」を提唱したのですが、かなり浸透できたと自負しています。県民の方々から意見や提言を募る「県民の声」の数も増加しました。人々の県政への関心の高まりがうかがえて、嬉しかったです。
宮崎を訪れる観光客に対する、県民のおもてなし意識も向上しました。私が在任中には、県内で元気な集落づくりに取り組む集落を、県が「いきいき集落」として認定し、情報発信や地域事業、研修交流会の開催を支援する取り組みをはじめました。結果として、多くの集落が応募してくれました(2017年も継続中)。
「離党」ではなく「議員辞職」という重い決断の理由
──宮崎県知事の任期満了後、2011年に東京都知事選に出馬し落選しますが、その翌年の2012年には、第46回の衆議院選挙に立候補し、見事当選を果たしました。大学でも地方自治を専門に学ぶなど、「地方」にこだわっていた東国原さんが国政に打って出たのは何故なのでしょうか。
国政ではありますが、私が政治家として軸をおいていたのは、あくまで地方自治でした。ちょうど日本維新の会から衆院選への打診があり、国という大枠から地方統治システムを変える党の方針に賛同し、立候補しました。
──ですが、国会議員としての活動期間はわずか1年で終わりました
維新の会が太陽の党(当時)と合併するという話しが持ち上がったことがきっかけです。私は一貫して反対していたのですが、党からは受け入れてもらえませんでした。その頃から、党内でゴタゴタがあったりして、このままの立場では、自分のやりたいことを貫くには限界を感じるようになりました。そこで、2013年に離党を決意したのです。
──東国原さんの場合、単なる離党ではなく、「議員辞職」でした。離党をして、そのまま国会議員であり続けるという選択肢もあったはずですが、そこまで踏み切った理由は何でしょうか?
私は比例代表で当選しました。つまり、私個人というよりも、党に寄せられた票で国会議員になったということになります。その筋を通すために、完全に議員を離職することにしたのです。
全国の会社が元気でなければ、地域経済は活性化できない
──国会議員を辞職した後は、再びタレント活動がメインになっていると思われますが、今後はどのようなプランを考えていますか。たとえば、政治の世界に戻るという選択肢はあるのでしょうか。
現時点では、政治への復帰は考えていません。
今一番やりたいと考えているのが「畜産」です。知事時代には、2010年に発生した口蹄疫問題について、宮崎の畜産農家を回って勉強もしたのですが、最後まで問題を解決できませんでした。宮崎の農家の方々に対し、口蹄疫の件が在任中に解決しきれなかった点について、きちんと謝罪したいという意味合いもあります。
既に後輩が宮崎で畜舎を借りて、試験的に肥育を始めています。本格的に着手するのも、そう遠い未来ではないでしょう。
──最後に、Biz Driveを読んでいる全国の読者に向けて、何かメッセージをお願いできますか
この先も日本が成長を続けていくには、「景気」「経済」というのは基軸となります。そして景気、経済を支えるのが「雇用」であり、雇用を生み出す「会社組織」なのです。全国の各地域の会社が元気でなければ、地域経済は活性化できないでしょう。
その地域経済の活性化には、チャレンジが欠かせません。なので読者の皆さんには、若者の意見やアイデアを積極的に取りあげ、新しい発想で果敢にチャレンジをしてほしいですね。
インタビュー:小池 晃臣
東国原 英夫(ひがしこくばる ひでお)
1957年、宮崎県都城市生まれ。1980年、専修大学を卒業後にビートたけしの一番弟子となり、1983年「たけし軍団」を結成。2000年、早稲田大学第二文学部に入学し2006年、早稲田大学政治経済学部政治学科を中途退学。2007年に宮崎県知事に就任し、2011年に任期満了し退任。2012年に衆議院議員に就任後、2013年に辞職。現在は文化人タレントとして活躍している。
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