19歳のときに「新人デザイナーの登竜門」と言われる装苑賞を受賞し、以来、業界の第一線で活躍し続けているのがデザイナーのコシノジュンコ氏だ。洋裁店を営む母親のもとで育ち、幼い頃からファッションに触れ、姉のヒロコ氏・妹のミチコ氏とともに世界的なデザイナーとして、常に斬新なアイディアを発信し続けている。
近年は、お笑い芸人のブルゾンちえみ氏と親子役で共演したNTTドコモのテレビCMが話題になった。また、2020年東京五輪組織委員会の文化・教育委員を務めるなど、ファッションだけに留まらない幅広い活動を精力的に行っている。
ベテランの凄みと少女のような好奇心を併せ持ち、次から次へと新しい取り組みに挑戦する、まさに“働く女性のパイオニア”。そんなジュンコ氏に、ビジネスが生まれる場の作り方や、人の心を動かすおもてなしの方法などについてお聞きした。
ファッションに憧れを抱けず、画家を目指していた学生時代
――コシノジュンコさんといえば、史上最年少での装苑賞受賞や、鮮烈なパリコレデビューなどのキャリアがまず浮かびます。また、お母さまはNHK朝の連続テレビ小説「カーネーション」の主人公のモデルにもなった小篠綾子さんですよね。幼い頃から洋裁店を営む母のもとで育ち、姉・妹とともに3姉妹揃ってファッションデザイナーとして活躍するという、まさにファッションの申し子というイメージがあります。いつ頃から、ファッションデザイナーになることを意識し始めたのでしょうか?
それが昔は、画家になることを目指していたんです。「カーネーション」でも描かれていますが、私の実家は大阪・岸和田の洋裁店でした。身の周りにいつも生地があり、服があり、デザインや裁縫の道具があったため、かえってファッションに憧れを抱けなくなってしまって……。当時は美大に入ろうと絵の勉強ばかりしていたんですよ。
ところが高校2年生のとき、信頼する美術の先生が私の油絵をとても誉めてくださって、「お母さんの作るものと似たところがある。どうしてお母さんと同じ方向に行かないの?」とおっしゃったんです。その言葉を聞いて、突然、「そう言われればそうだよなあ」「やっぱり、そうなんだなあ」と、なんだかとても腑に落ちたような気持ちになりました。
母や姉妹から「ファッションの方向に進みなさい」と言われていたらきっと反発していたと思うのですが、先生に、なにかこう、ふっと当たり前のように言われたので、ストンと腹に落ちたんですよね。それからファッションというものを意識するようになったような気がします。
――画家志望だったとは意外です。高校2年生の頃からファッションを意識し始めたとのことですが、そこから方向転換をしてうまくいったのでしょうか?
画家もファッションデザイナーも「絵を描くこと」「デザインすること」が核になる職業ですから、特に苦労はしませんでしたね。高校を卒業して文化服装学院に進学し、スタイル画の先生のもとに弟子入りして、1年もしないうちに装苑賞を受賞しました。21歳のとき、銀座小松ストアー(現・ギンザコマツ)の売り場の一角に小さなお店を出店。当時は若いからとナメられないように、伊達メガネをかけ、大人びた服を着て、年齢を「25歳ぐらいよ」なんてボカして仕事をしていたんですよ(笑)。お客さまからは「ベビーギャングちゃん」なんて呼ばれて、可愛がっていただきました。
あえて異業種の人々と交わることで、顧客を開拓した
――21歳という若さでお店を持ったとのことですが、顧客はどのようにして開拓していったのでしょうか。どなたかからお店を引き継いだとか、別に経営者がいたとかではなく、ゼロからのスタートだったわけですよね?
お客さまとは遊びのなかで知り合ったような感じです。当時は新宿2丁目が、今でいう銀座や表参道のような最先端の街でした。ジャズが新しい時代で、新宿2丁目のジャズ喫茶には、グラフィックデザイナーやフォトグラファー、建築家、外国人クリエイターなど、一流を目指すカッコいい人たちが集まっていたんですよ。
ファッション業界の人は、ほとんどいらっしゃらなかったんじゃないかしら。女性もほとんどいませんでしたね。異業種の、プロを目指す、面白い人たちが集まる場だったからこそ、刺激や交流が生まれ、新しい仕事に発展していったのだと思います。ここで出会った人やそのお友だちがお客さまになってくださり、どんどん仕事が広がっていきました。
業界というのは、とても狭くて閉鎖的なもの。そこに留まっていたのでは、新しいものは生まれません。むしろ、業界の人がいないところを選んで出かけるぐらいでなくてはダメ。だいたい、同じ業界の人じゃお客さまになってはくれないでしょう? ミュージシャンだから「衣裳を作ってほしい」と声をかけてくれ、フォトグラファーだから「撮影用の服をデザインしてほしい」と依頼してくださるのです。
仕事は、遊びのなかから生まれるもの。「仕事で一流になることを目指している人」「目がキラキラと輝いている人」、そんな人たちが集う場で“遊ぶ”ことが、とても大切だと思います。
お客さまとよい関係を築くには、徹底したおもてなしが欠かせない
――ジュンコさんは、ファッションだけに留まらない幅広いデザインワークに取り組まれています。最近のお仕事のなかで特に印象に残っている「ファッション以外の仕事」があればお教えください。
いろいろあるのですが、「日本スペイン外交関係樹立150周年」を契機とした訪日旅行促進事業のお仕事は印象に残っていますね。2018年1月16日にスペインのマドリードで、日本の文化や伝統美を発信するイベントをプロデュースさせていただきました。私が演出した舞台、デザインした衣裳で、日本舞踊家・花柳寿楽さんに踊りを披露していただいたり、ファッションショーを行ったり。レセプションでは、ディナーのコーディネートも行いました。
ニューヨークやワルシャワでも日本食PRイベントのレセプションをプロデュースしたことがあります。私は日本を、「手仕事」「手に職」などの言葉に代表されるような、ぬくもりある「手の文化」を持った国だと考えています。手から生まれる細やかさ、ていねいさ、そして大胆な美しさを表現するため「小さくデザインして大きく使う」ような漆食器を使用しました。
「美しい味」と書いて「美味しい」と読むわけですから、食にも美しさは欠かせません。食べる前から美味しい、食べる前からワクワクする、そんな場を作りたいと思ってディナーをコーディネートしました。
――写真を拝見しているだけでワクワクしてしまいますね。ジュンコさんの遊び心やおもてなしの心を感じます。
おもてなしには、つねにこだわるようにしています。お客さまを驚かせ、感動していただくため、裏での緻密な準備は欠かしません。「表」が「ない」で「おもてなし」。おもてなしは、見えないところでの努力や準備でできていると言っても過言ではありません。見え見えの演出ではなくて、裏でなされている配慮やささやかな工夫の積み重ねが、お客さまの喜びにつながるのではないかなと思います。
そしておそらく、こうしたおもてなしが、多くのお友だちやお客さまと長くよい関係を築くための土台になっているのだろうなあと思うのです。
――おもてなしの心を大切に、ファッションだけでなく、空間や食のプロデュースまでされているのですね。
私が作っているのはファッションではありません。どちらかというとデザイン全般に近く、文化を作るような仕事をしているんですよね。そもそもファッションというのは、服や衣装という意味ではなくて、「流行」という意味を持つ言葉。ファッション=流行を超えたものを作りたい、今はそう考えて、さまざまなお仕事に積極的に挑戦するようにしています。
<後編へ続く>
コシノジュンコ
大阪府岸和田生まれ。文化服装学院デザイン科在学中、新人デザイナーの登竜門とされる装苑賞を最年少で受賞。東京を拠点に活動し、1978年のパリコレクションを手始めに北京、ニューヨーク、ベトナム、ポーランドなど世界各地にてショ-を開催。2006年に「イタリア連帯の星/カヴァリエーレ章」受勲、2009年に「モンブラン国際文化賞」を受賞するなど、世界から高い評価を得ている。オペラやブロードウェイの舞台衣装、スポーツユニフォームといった服飾デザインのみならず、インテリアや食、花火のデザインも手がけるなど、幅広い分野で活躍中。東日本大震災発生以降、復興支援活動にも力を入れている。2011年10月~2012年3月、コシノジュンコ氏の母・小篠綾子をモデルとしたNHK連続テレビ小説「カーネーション」放映。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 文化・教育委員、2025年国際博覧会誘致特使、文化功労者。毎週日曜17時~TBSラジオ「コシノジュンコMASACA」放送。
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