日本初、そして最大級のQ&Aサイト「OKWAVE」を運営するのが株式会社オウケイウェイヴである。代表取締役社長の兼元謙任氏は、インターネットを介し困っている人が助け合うシステムを2000年に立ち上げた。人が人の役に立つことをビジネスにつなげるという発想をなぜ同氏は考えついたのか、その背景には、様々な苦労の経験があった。
前編ではOKWAVEを立ち上げるまでに至った経緯を伺った。幼少期からホームレスになるまでの壮絶な経験とそこから何を得たのか。苦労に苦労を重ねた経験を取り上げる。
「前半の試練に耐えれば、後半にはきっと人のためになることをする」
──“WebベースのQ&Aコミュニティ運営”というビジネスは、どういった思いから立ち上げたのでしょうか
それは、「困っている人の質問に善意をもって回答し、その人を助けたい」「助けていただいた人にはいつかまた、他の困っている人がいれば“恩を返す”という意味でも回答していただくことで、互いに助け合っていただきたい」という思いからです。そして“世界中の人と人を信頼と満足でつないで、ありがとうを生み出していく”ことこそが、当社のミッションであると考えています。
──そうした強い思いを抱くようになったのはなぜでしょうか
そのためには私自身の子ども時代にまで遡らねばなりません。
私は幼少時からの虚弱体質により、高校までは入退院を繰り返す生活を送っており、学校に行くこともままなりませんでした。
また、小学校5年生の時にはじめて自分が在日韓国人三世であることを自覚する出来事があり(現在は帰化)、それは同時に一部の級友から激しいいじめに遭う毎日の始まりでもありました。
私にとって最大のショックは、昨日まで仲良くキャッチボールをしていた友達が、次の日からは「やーい朝鮮人!」と殴りかかってくるほど豹変したことでした。前日に母が帰化登録の手続きをした帰り道を、たまたま友人が目撃して学校に広めたようです。その日の放課後に呼び出されて殴る蹴るの暴力を振るわれました。
国籍という紙切れ1枚の違いで、昨日までいっしょに遊んでいた級友が手のひらを返したような態度をとったこの出来事は、今日に至る私の人生の出発点でもあったと思います。
それからは、何かにつけて「韓国人は◯◯だ」と色眼鏡で見られてしまい、どうにも抗うことができませんでした。日本で生まれ育ち、日本語しか話せなかった当時の自分にとって、国籍が変わるだけでここまで周囲からの扱いが変わってしまうという事実にただただ混乱し、それはやがて人生への諦め、絶望、そして怒りへと変わっていったのです。
また、そんな過酷な日々でしたので元々弱かった身体はさらに弱くなり、入院も長期に及んでいました。入院生活でも毎日のように泣き暮らしていた私は、ある日、同じ病院の入院患者だったある年配のご婦人と出会いました。その方は私の手相を見てこう言いました。
「あなたの前世は海賊の親玉でたくさんの人に迷惑をかけたのよ。だから、あなたは今その償いをさせていただいているから、代わりに病をわずらい、針をさしたり、メスを入れられたり、薬を飲まなくてはいけないの。人生の前半のこの試練に耐えれば、後半にはきっと人のためになることをするようになるから、今は決して命をたってはダメよ」
理由はよくわからないのですが、これを聞いてすっと楽になったんですね。“ああ前世が原因ならもう仕方ないや、ならいつか良いことしてやろう”と。あまりに理不尽な当時の状況を割り切れてしまえたんです。
デザインは医療も福祉も経済も内包する懐の深い分野
──高校卒業後は愛知県立芸術大学に進学されていますが、デザインの道を選んだ理由は何でしょうか
もともと入院生活が長かったので、できることは限られていました。絵を描いたりペーパークラフトやプラモデルを作ったりと。それで絵やデザインが好きになったというのが根幹にあります。また、日々自分が使う箸やスプーン、それに点滴や吸入器、車椅子など医療機器や福祉機器のデザインにも“ここをこうすればもっと良くなるのに”と感じる点があちこちにあり、いつしかデザインというものにすごく興味を抱くようになっていたんです。
そして大学で本格的にデザインの世界に入ったことで、人生の目が大きく開きました。その理由の1つに、本来デザインというのは、医療も福祉も経済もなんでも含まれてくるとんでもなく懐の深い分野だというのが実感できたことがあります。
そしてもう1つは、総合芸術大学という強みを活かし、音楽や舞踏などの異分野の学生と一つの課題に取り組めたことでした。異分野でコラボレーションすると、みんなそれぞれ視点が違っていて楽しいし、成果物も魅力的になるんですね。この発見が、やがて私の物事に対する取り組み姿勢の礎となり、そしてOKWAVE運営の原点ともなっています。
──大学卒業後もデザインの道に進んだのですか
そうです。大学卒業後は京都のデザイン会社と名古屋の建築塗装会社で働きました。
それぞれの会社で働いている間も、異文化コミュニケーションのグループ活動は続けていました。このグループ活動では数々のデザインコンペに応募を行い、賞ももらっています。
アメリカでの「裏切り」で一転ホームレスへ
──仕事とグループ活動の両立はそのまま継続したのでしょうか
いえ、どちらもうまくいかなくなりました。
建築塗装会社に所属している時、雑誌にあるIT実業家の方が「これからはデザインが大事だ」と力説しているのを目にし、「これだ!」とすぐに電話してアポを取り、東京へ駆けつけました。実際に会って話すとすぐに意気投合し、「アメリカであるビジネスを考えている。おまえ、アメリカに行かないか」と言うので、「行きます!」と即答したんです。会社にも辞表を提出しましたよ。
私が所属しているデザイングループは当時30人程の所帯でしたが、そのうち私を含めた代表3人が先発隊としてアメリカへ向かう計画でした。しかし、来日していたビジネスパートナーとなる会社の社長と会見した際に、相手から「うまく行かなかった場合はどうする?」と脅し気味に問いかけられたところ、私以外の2人が「それは困ります」と一気にトーンダウンしてしまったんです。私は「問題ありません」と返したのですが。
そこから空気は大きく変わってしまい、やがて一緒に活動していたグループのメンバーから突然裏切られることになりました。彼らは私に対して、「こんなにあいつが一生懸命に活動しているのは、きっとあいつだけ裏でおいしい思いをするからだ」という猜疑心を抱いていたんです。もちろんそんなことはあるはずもなないのですが。彼らは、いつしか自分たちで会社を興してしまい、私と活動をともにすることはなくなりました。
私には、デザイングループのメンバーが誰もついて来ておらず、私自身も会社を辞めていたので、孤立無援になってしまいました。さらに、妻からも離婚届を突きつけられてしまいました。義父のところに相談に言っても、優しかった義父が非常に険しい表情で「家庭もちゃんとできない人間が、世界を良くするなんてできるわけないだろう」と言うんです。「はい、仰る通りです」としか返せませんでした。なんとか職にありつこうと、件のIT実業家のところにも行ったのですが、「デザインチームを失った君に何のバリューがあるのか。雇う理由はないよね」と門前払いでした。
これまでは、何度か辛いことはあっても、その度に、子どもの頃に殴られてトイレに顔を突っ込まされた体験を思い出して頑張ってきたのですが、この言葉は流石にショックでした。この時点で、小学校高学年の頃から張り詰めていた何かが私の中でポキンと折れてしまい、逃げるように上京したものの気がついたら東京駅で倒れ込んでいたんです。「ああ、もうなんだかどうでもいいや」とそのまま寝ついてしまい、いつしかホームレスとして暮らすようになっていました。1997年秋のことです。
<後編へ続く>
インタビュー:小池 晃臣
兼元 謙任(かねもと かねとう)
愛知県立芸術大学卒。学生時代から仲間を募って人的ネットワークを作り、さまざまなデザインワークを行う。株式会社GK京都、株式会社ダイワ、株式会社イソラコミュニケーションズを経て、株式会社オウケイウェイヴの前身、有限会社オーケーウェブを1999年に設立し、2000年にQ&Aサイト「OKWAVE」を正式公開。
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