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【特別企画】スペシャルインタビュー「あの有名人が語る!」(第13回)

入社3年目で社長に。一風堂を継いだ清宮俊之とは?

posted by 篠原 克周

 「一風堂」といえば、Barのようなモダンな店内にジャズのBGMが流れており、女性がひとりでも入店しやすいスタイリッシュな人気ラーメンチェーンとして知られている。

 その一風堂を運営するのが「株式会社 力の源(もと)ホールディングス」(以下、力の源)である。同社は一風堂をはじめとするラーメン店のほか、居酒屋やベーカリーなどの飲食事業、飲食業への商品開発や人材教育などのコンサルティング、食育や農業の六次産業化(※)など、多岐に渡っている。近年では、アメリカやヨーロッパ、アジア諸国へ一風堂の店舗を展開している点でも注目されている。

 (※収穫・漁獲の第1次産業、加工の第2次産業、流通・販売など第3次産業までを一環で手がける経営手法のこと)

 同社が誕生したのは今から約30年前の九州・福岡。創業者の河原成美氏は、ラーメンブームの旗振り役として、1994年の「新横浜ラーメン博物館」出店、「TVチャンピオン」(テレビ東京系列)の3年連続ラーメンチャンピオンなど、八面六臂の活躍を見せた時代の寵児である。

 その河原から絶大なる信頼を得て、経営のバトンを託されたのが、CCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社/TSUTAYAの運営やTポイント事業を行う企業)から転職してきた、当時入社3年目の清宮俊之氏だ。創業者がつくり上げてきた企業を、清宮は一体どのように変革し、成長させていくのか。前編では清宮が歩んできた人生と、力の源への入社の経緯などについて聞いた。

「賑やか」が当たり前の家庭で培った才能

──まずは小さかった頃の話を聞かせてください。どのような子供時代を過ごしましたか

 生まれも育ちも神奈川県の横浜市で、とにかく身体を動かしていないと気が済まないような子どもでした。学生時代は野球、バレーボール、カッター(ボート競技)に熱中し、社会人になってからはサーフィンやゴルフもはじめました。

 完全なアウトドア派なんですが、一方で趣味は読書という、全く別の一面もあったりします。本が好きになったのは、父親の影響が大きいです。父は建築家で、横浜市の学校や公共施設などの設計をしていました。本をよく読む人で、部屋には本棚がたくさんあり、まるで図書館のような家でした。

 父は職業柄、さまざまな人との付き合いがあったようです。県庁の役人の方をはじめ、現場の監督さんや職人さんなど、立場の違ういろんなタイプの人と折衝しながら、プロジェクトを進めていくのが仕事です。中には個性が強い人もいたと思います。だからなのでしょう、人と人をつなぐのがとても上手い人でした。

 母も世話好きな人で、家には年がら年中、近所の人たちの出入りがありました。学校から帰って来ると、誰かしら近所の人がワイワイやっていて、とにかく賑やかなんです。町内会の集まりがあると、みんな公民館へ行かず「じゃあ、今日も清宮さんちに集合ね」みたいなノリで、自然と人が寄り集まって来るような環境でした。

──そんな両親の人柄は、自身の人格形成にも影響がありましたか

 子どもの頃はそれが普通でしたが、核家族化が進む時代では珍しい家だったのかもしれません。私も父と母の後ろ姿を見ていたのでしょう。そういう雰囲気の中で育ったので、人の輪の中でどう振る舞えばいいのかということや、体感的に人と人をつなぎ合わせる術が身についたように思います。

 実際、学生時代から、誰かと誰かをつなぎ合わせるという役目が得意でした。そういう立ち位置がぜんぜん苦ではなく、両親と同じように、自分から進んでやっていました。この特性は、社会へ出てからも自然に発揮していくことになりました。

 人と人をつないでチームをつくるというのは、ビジネススキルとしても非常に重要なものですよね。「チームをつくる」を別の表現に置き換えると、「実現力」といえるかもしれません。

 たとえば、誰かにすごく良いビジョンがあっても現場が追いついてなければ、ビジョンはただの絵空事です。その逆に、実行力があってもビジョンがないと何も組みあがらない。やっぱり上下左右斜め、あらゆる方向にあるヒト・モノ・カネを誰かがつなぎ合わせなければならない。そういう役割をやる人がいないと、会社や組織は成立しません。

 もし私が人より秀でた部分があるとすれば、“チームをつくる”という「実現力」なんだと思います。

一風堂は「全体からエネルギーを感じるすごい空間」

──大学ではどんなことを学んでいたのですか

 日本大学の農獣医学部(現・生物資源科学部)で、牧場経営、獣医学、水産、食品経済などについて学んでいました。農獣医学部は、私の性分にとても合っていたと思います。まさにアウトドア系の人間でしたから、動物や自然に触れられる環境で授業ができたので、充実していたし、すごく面白かったです。

──卒業後は、やはり動物や自然に触れ合う業界を目指したのでしょうか

 専門性の高い学部ですから、就職先は動物関係をはじめ、製薬、化学、食品メーカーがほとんどです。私も最初は規定路線上の就職活動をしていました。ところが何を思ったのか、学部と全く関係のない会社に憧れを抱いてしまい、就職情報誌に付いていたハガキを100通以上送って、さまざまな業態の入社案内を入手しました。

 その中から就職を決めたのがCCCです。実は会社のことは何も知らない状態で、そのまま選考に行ったら、社員の人たちにすごい熱量と勢いがあってとても魅力的で、クリエイティビティにあふれていました。“ああ、この会社は、きっと面白い会社に成長していくんだろうな”というのが肌で感じられたんです。

──清宮さんがCCCに入社した1990年代半ばぐらいは、ちょうど一風堂も勢いを増していた頃です。端から見ていて、どんな印象を抱いていましたか?

 1号店の恵比寿の店の印象がすごく強かったです。並ぶのは大変でしたけど、よく利用していました。1994年にラーメン博物館に出店した時のことも覚えています。でも、河原(創業者の河原成美)が「TVチャンピオン・ラーメン職人選手権」(テレビ東京系列)で優勝して活躍していたのは、テレビで見た記憶が全くないんです。

 ラーメンは好きだったので、一風堂には足を運んでいて「なんだか、すごい店ができたなぁ」と感じ入ったりしていました。当時、多くの人が一風堂を評して「女性がひとりでも入りやすいきれいな店」と言っていましたけど、私の見方はちょっと違いました。

 分かりやすい例で表現できないのですが、一風堂には尖がったものを感じていました。とにかく全体からエネルギーを感じて、すごい空間でラーメンを食べていたという記憶があります。この不思議な感覚は、CCCへの就職を決めた時と似たような感覚でした。もし自分の中に“好奇心のボリューム”があったとしたら、どちらも同じくらいの分量だったかもしれません。

先手を打ち続けていれば、点が線になり、やがて立体になる

──そのあたりがベースにあったのかもしれませんが、CCCから力の源へ転職を決めた決定的な理由はなんだったのでしょうか

 CCCでは神奈川地域の責任者や大きなプロジェクトに関わったりして、やりがいがあったんですが、30代後半になり人生の節目を感じるようになりました。40歳になる前に、全く自分の存在やバックボーンを知られていない環境に行って、自分自身がどこまで通用するのかという型破りなチャレンジをしてみたくなったのです。

 ちょうどその頃、知人に紹介され、河原に会う機会を得ました。私が「今、世の中で、いろんな事業を展開されていますが、どう見ていますか」と質問した時のことです。河原は「上手く言えないけどさぁ、見えない場所に碁を打っているような感覚なんだよね」と言ったのです。それはラーメン以外の飲食業、海外事業、農業、食育など、一見何のつながりもない事業を、見えない場所に碁を打つように展開しているという意味でした。

 その後に一瞬の間をおいて、河原は「先手、先手で碁を打ち続けていると、その点が線になり、線が面になって、いずれは面が立体になる気がするんだ」と続けました。そのときに“ビビビッ”という感覚があって、ああ、この人はすごいと思いました。「変わらないために変わり続ける」という力の源の経営理念にシンクロしているんだとも感じました。この経営者からなら、いろんなことを学べる。そして自分の力を思いっきり発揮できるはずだとも確信しました。

後編に続く

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篠原 克周

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