人気ブランド「無印良品」の衣料品から家庭用品、食品など日常生活全般にわたる商品群の企画開発・製造から流通・販売までを行う企業が、株式会社良品計画だ。国内直営店312店舗、商品供給店102店舗、さらには海外で344店舗を展開するこのグローバル企業にも、かつて大きなピンチに見舞われたことがあった。
その渦中に、同社のトップに就任したのが、現在は経営コンサルティング会社「松井オフィス」の社長を務める松井忠三氏だ。松井氏はどのような方法で、無印良品を再生へと導いたのか。
わずか1年で約4千億円の企業価値を喪失
──2001年に、業績不振のまっただ中にあった良品計画の社長に就任したのは、どういった経緯からだったのでしょうか
もともと私は大学卒業後1973年に西友(当時の社名は西友ストアー)に入社し、そこで人事部門に籍を置きながら、各種制度の構築、幹部社員の意識改革研修などを担当していました。
良品計画は1989年に西友から独立しましたが、私は人事制度などを整備するため、1991年に西友から良品計画へ移りました。そして1993年には取締役となり、現在のネット通販「MUJI.net」につながるインターネットビジネスを立ち上げました。1999年に専務取締役となったのですが、当時は創立以来11年連続して増収増益という右肩上がりの状況で、まさに絶好調といった感じでした。
ところが、2000年の少し前より、急激な業績不振に陥ってしまいました。私は責任を取って退任した前社長のあとを受け、2001年1月に急きょ社長に就任することとなったわけです。無印良品が初めて減益を経験したのは、私が社長に就任してすぐの2001年2月の決算でした。
──まさに先発ピッチャーが炎上中に緊急登板したという感じですね
その通りで、マウンドに立たされた以上はとにかく少しでも早く鎮火せねばと必死でした。しかし、世間の風当たりは強く、例えば私が決算発表で少しでも良い点などを発言した内容は、どこの新聞にも取り上げられませんでした。その一方で、「無印の時代が終わった」とマスメディアに書かれてしまったり、株式市場のアナリストからは「一度凋落した日本の専門店で、その後復活したところはこれまでにひとつもない」と断言されたりと、厳しい言葉ばかり投げかけられました。
もっとも、それも無理のないことでした。なにせ2000年2月に1万7,350円あった株価が、2001年2月には2,750円にまで落ち込んでいたのです。それを時価総額にすると約4,900億円から770億円への下落になるので、実に4,100億円もの企業価値が1年で喪失してしまったわけですから。2001年8月中間期には、38億円の赤字に陥りました。
リストラはあくまでも応急措置。リストラで立ち直ったケースなどない
──炎上を鎮火するために、まずは何から手を付けましたか
当時の良品計画で特に大きな問題だったのが、多くの不採算店舗と不良在庫を抱えていたことでした。そこで、これらを思い切ってリストラしました。
不採算店舗については、社長に就任してすぐに閉鎖し、売り場面積を縮小しました。その時に閉鎖した直営店は、全店舗の1割にも及びます。海外事業もリストラを断行し、こちらは店舗だけでなく人員の整理も行いました。
あとは、新潟県長岡市にある物流センターの倉庫に眠っていた不良在庫を、焼却処分しました。これは原価にして38億円、売価で100億円分でした。スピード感をもって在庫処分するための処置でしたが、良い商品を開発し、そして人々へと届けることを生業とする製造・小売業に身を置く者としては、商品の焼却の現場に立ち会った私にせよ社員にせよ、とてもつらい経験でした。
──そうした思い切ったリストラが、その後のV字回復の決め手となったのでしょうか
いえ、リストラはあくまで会社が再生するための応急処置に過ぎません。私も、リストラで会社が立ち直ったケースなどないと認識していました。むしろ1年でリストラが完了し、そこからが改革の本番だと考えていました。
「このままでは実行力のある企業に負けてしまう」
──では、「改革の本番」とは、どのような施策だったのでしょうか
良品計画の会社組織が、企画書を作るなど計画ばかりで、実行する力が伴わない、“負け続けてしまう構造”に陥っており、入社以来、実行力を重視する社風をすべての従業員に行き届かせた、“勝つ構造”へと作り直さねばいけないと感じていました。そこで社長に就任して3年目ぐらいから、社風を変化させることに取り組みました。
当事の良品計画には「セゾン文化」と言われた、感性に重きを置いた、独特の企業文化が根付いていました。それは、セゾングループの創業者である堤清二氏という、稀代の経営者の強いカリスマ性によって貫かれていたもので、「無印良品」というブランドの成長には欠かせないものだったと思います。
しかしその一方で、チェーンストアの経営手法のひとつであるチェーンオペレーションのような近代小売業の基本原則が、社内に十分に浸透していなかったという問題点がありました。チェーンオペレーションがきちんとできなければ、小売業の経営は難しい時代に入っていたにもかかわらずです。
例えば従来は、堤清二氏に何かを提案するためには、100ページにも及ぶ膨大な企画書が求められました。しかし私は、紙の量と実行力は反比例すると考えています。一枚ぐらいのコンパクトな提案書の方が、100枚の提案書よりも実行力は強いのです。
そのため、良品計画はいつしか、戦略は一流でも、実行力は二流の企業となっていたのでした。このままでは、戦略は二流かもしれないけれど、素晴らしく実行力のある小売企業と戦ったならば、必ず負けてしまうことでしょう。なにせ、企画を具体的な施策へと移す力が伴わないのですから。
そのため良品計画を、実行力のある「足腰の強い組織」へと変えなければと、大改革に着手したのです。
<後編へ続く>
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