東京都の職員から、倒産寸前のはとバス社長に就任し、わずか4年で累積損失を一掃して同社を再建へと導いた宮端清次氏。その役人出身らしからぬ意識改革と組織改革の手腕は、各ビジネス誌でも話題となった。
しかし、たった4年で累積赤字を解消した背景には、相当な苦労があったことが想像される。その苦難の道を、宮端氏本人に聞いてみた。
「融資はできないが潰さずに再建しろ」
──1998年に破綻寸前だった株式会社はとバスの社長に就任したのは、どういった経緯からだったのでしょうか
私は元々東京都の交通局長を勤めていましたが、都庁での定年を前に「東京都地下鉄建設」という会社に出向し、都営大江戸線の建設に携わっていました。大江戸線の全線開通に向けて指揮をとり、その頃は全線開通をきっかけに引退しようと考えていました。
ところが、1998年の夏に急に都庁に呼ばれて、上司に「はとバスの社長をやってくれ」と言われたのです。「4年連続赤字の会社だけど潰さずに再建しろ」「だけど都から融資はできない」という、あまりにも厳しい条件で、正直不満も大きかったです。
しかし自分の仕事人生を振り返ってみて、都庁に35年も勤めてお世話になったのだし、都が筆頭株主の会社がピンチであるのなら、多かれ少なかれ自分にも責任があるのではと考え、引き受けることにしました。
リストラではなく、全社員で「痛み分け」する道を
──まずはどんなことからスタートしたのでしょうか
8月に都から依頼され、翌9月に株主総会で正式に社長就任が決定したわけですが、実はそれ以前の段階で、既に必死に動き回っていたんです。特に、融資が止まればすぐに潰れるのは目に見えていたので、まず取引銀行に頭を下げてまわりました。
合わせて、「全社員の意識改革」「徹底した合理化」「サービスの向上」という3本柱からなる再建の基本方針を立てました。また、年度中にV字回復の目処を立てなければならないことから、初年度黒字化のためのより具体的な緊急対策をつくりました。
具体的には、賃金カットです。社長3割、役員2割、社員1割という賃金カットに踏み切りました。また、乗務手当基準を従来の拘束時間から「ハンドル時間」(実際にバスが動いている時間)へ変更したほか、55歳役職定年制を導入し、過去2年の赤字路線・事業も廃止しました。自社整備工場の有効活用にも取り組みました。
こうして事前に再建に向けた準備を整え、9月末の株主総会で「1年目に単年度黒字化を果たせなければ役員ともども責任をとって辞任する」と宣言しました。
──緊急対策は、社員や役員にとってもかなり厳しい内容ですね。
確かにそうなのですが、経営再建というのはスタートダッシュが肝心ですし、何よりはとバスは6月決算でした。初年度黒字化を果たすには、その9月時点で既にあと9カ月ほどしかありませんから、もう時間との戦いでした。だからこそ、相当に思い切った手段が必要だったのです。会社が潰れてしまったら全てが台無しになってしまいますし、かといって最も効果の高いリストラだけは避けたかったですから。そのため、誰かを解雇する代わりに全社員で痛み分けをしようと、賃金カットを行いました。
──社内からの批判も大きかったのではないですか。
かなりのものでした。プロパー(生え抜き)の役員や社員からも相当な怒りをぶつけられました。だけど、私が賃金カットという最終的ともいえる厳しい手段をとったおかげで、社員の間に「本当に潰れるのかもしれないぞ」という危機感が共有されていき、労働組合の委員長の合意にもつながりました。
ベテラン運転士の言葉に、経営者の真の使命を知る
──社長就任から間もない時期に、特に印象に残ったエピソードを聞かせてください
私にとって経営者の出発点となったと言えるほど深く胸に突き刺さったのが、合理化案を発表した場での、ある運転士の言葉でした。
「社長の話を聞いてもどうしても納得できない。会社が4年連続赤字で経営が厳しいことは我々社員も知っていたが、ではその間、経営者は何をやっていたのか。ただ手をこまねいていたのに、今となって半ば脅しのように合理化を迫るのなら、まずは自身の経営責任を果たすべきではないのか」と。
その運転士は、はとバスで40年以上ハンドルを握ってきたベテランなのですが、もう絶句して返す言葉が見つかりませんでした。私自身も無茶とも思える状況でしたし、彼の言うとおりだったのですから。私には、深く頭を下げて「申し訳ない」と詫びるしかなかったのです。
そして社員全員に1つだけできる約束として、二度とこんな悲しい思いを社員や家族に絶対にさせないことを誓いました。頭を下げ続ける私の姿を見て、ベテラン運転士も「まあわかった。あなたに言っても仕方ないことだ」と矛を収めてくれました。
──外から来て急に社長に就任したとはいえ、トップに立った以上はそれまでの経営の責任も負うことになるのですね
その通りです。それまでは大胆な合理化をすればうまくいくだろうと考えていたのですが、甘かったなと痛感させられました。会社には一人一人の社員がいて、そこには熱い血が流れている。さらに、800人の社員の背中の向こうには、それぞれが支えている2000人もの家族が控えていたわけです。その全員が安心して暮らせるようにするのが、経営者である私の責任なのだと初めて実感すると、もはや自分には退路などないのだとわかりました。
しばらく不安で眠れなくなったぐらいでしたが、この出来事があったからこそ、本当の意味で経営者としての自覚が芽生えたのだと思っています。
<後編へ続く>
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