下克上が横行した戦国の世を駆け抜けて、天下統一の悲願達成目前で散ったカリスマ戦国武将、織田信長の劇的な人生は、今も多くの人を惹きつけてやみません。
豊臣秀吉、徳川家康という天下統一を果たした武将と並んで評される信長ですが、前者の2人と比べると、奔放や傲慢というイメージを抱かれがちです。しかし家臣が記した伝記を読むと、むしろ心の機微に通じた人心掌握術の持ち主であったことが伺える逸話も残っています。信長が人心掌握のために使った「心理テクニック」とは、どのようなものだったのでしょうか。
傲慢・奔放なイメージの逸話が先行
織田信長の一般的なイメージといえば「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」という川柳や、比叡山の焼き討ち、一向一揆の弾圧などといった史実から、目的のためなら手段は厭わないというイメージではないでしょうか。また明智光秀の裏切りによる「本能寺の変」によって、生涯を終えたことから、部下から好かれていなかったという印象も強くなってしまったのでしょう。
しかし、苛烈な戦略や政策は天下統一に向けた最終段階で多く見られるものであり、その前段階である弱小大名を家臣団ともに強化していった時期の信長には、人間心理の機微を理解した逸話が多くあります。
そのような人心掌握術に関するエピソードは、信長自身の手紙や、信長の伝記といわれる『信長公記』(しんちょうこうき)にあります。
夫だけでなく妻の信頼も勝ち取った信長
手紙では、浮気を繰り返す木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に心を痛める妻の寧々(ねね)に対して送ったものがあります。その手紙では、部下である藤吉郎の側に付くのではなく、彼女の意見を肯定して励またそうです。さらに、その自分が書いた手紙を夫に見せれば、浮気を諌められるとまで助言しています。妻が夫の浮気を上司に相談するということは、最終手段で訴えている状態でしょう。それを察した信長は、寧々の側につくことで夫婦の仲を取り持つだけでなく、夫と妻、両者から忠誠と信頼を得ることに成功したのです。
このように織田信長が有力な戦国武将にまで勢力を伸長できたのは、自身の政治や軍事の才覚だけでなく、数多くの有能な家臣の人心を掌握して、その能力をフルに活用していたからなのでしょう。
2段階戦術で信長は要求を相手に喜んで飲ませた
家臣だけでなく、信長は民衆の人心掌握術も知っていたようです。桶狭間の戦いで今川義元を下した後、信長は尾張(現在の愛知県北西部)統一のために、清州城からの移転を考えつきます。しかし清洲(現・愛知県清須市)から居城を移すことは、現在の県庁所在地の移転にあたり、家臣だけでなく民衆にとっても一大事になります。戦略や政治面で有利な土地でも、移転が大作業ならば、家臣と民衆の反発は必至です。
そこで信長は、当初移転する予定だった小牧山(現・愛知県小牧市)よりも、はるかに不便な山の中にある二宮山(現・愛知県犬山市)に家臣を連れていき、そこで築城を命じます。さらに家臣の住まいを決める屋敷割りなどの細かな指示まで行いました。
不便な山奥へ移ると言われた家臣たちは、当然ながら猛反発。民衆も同様で、顔を合わせるたびに信長への不満を口にしたと言い伝えられています。
不満が広まると、移転地を小牧山に変更するという譲歩案を発表します。すると平地にある小牧山ならば、と家臣も民衆も喜んで譲歩案を受け入れました。信長は民衆の不満も織り込み済みで、2段階戦術で予定した土地への移転を果たしたのです。
このことからも信長が、決して強引に事を進めるタイプではなく、人間心理の機微を突くテクニックにも長けていたことが伺えます。
信長の使った心理テクニックは現代でも通用する
信長が小牧山への移転の際に用いたテクニックは、現代では交渉術の1つとして知られるようになっています。
これは「ドア・イン・ザ・フェイス」という心理テクニックです。まず相手が拒否することを前提に、受け入れがたい要求を提示します。相手が拒否を示したら、あたかもしぶしぶ妥協しているかのような態度で譲歩します。最終的には、自分が事前に決めていた要求を飲んでもらうのですが、相手は譲歩してくれたように見えるのです。
このテクニックは、人間心理の「返報性の原理」を利用しています。人には、相手が妥協してくれたのだから、こちらもお返しをしなくてはならないという心理があるそうです。このテクニックは相手の断る回数が複数になれば、その流れが作りやすいとされています。ドア・イン・ザ・フェイスという名前は、訪問先のドアが開いたら、了承も得ずにセールスが顔を突っ込む動作が由来になっているそうです。
戦国武将である信長は、このような心理学を学んではいません。若い頃の経験か、あるいはもともと人間心理を読む能力に優れていたのか、心理テクニックを自然と身に付けていたようです。このような点からも信長が、武力や上下関係だけで要求を押し通す独裁者とは、別の顔を持っていたことがわかります。
ホトトギスの川柳のイメージが強い信長ですが、一国のリーダーとして剛と柔の両方の人心掌握術を使い分けていたようです。現代のビジネス・シーンでも、ドア・イン・ザ・フェイスはまだまだ現役です。もし部下や周囲の心理を掴みきれないのなら、信長のテクニックを見習ってみてはいかがでしょうか。
【参考資料】
大田牛一著・榊山潤翻訳『現代語訳 信長公記(全)』筑摩書房
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