1995年に兵庫県を中心に発生した阪神・淡路大震災は、死者が約6,500人、住宅被害が約64万棟という未曾有の大災害でした。阪神・淡路大震災によって、兵庫県下の産業は壊滅的被害を受けます。被害を受けた産業の1つが、神戸市長田区の地場産業で合成皮革製の靴を製造するケミカルシューズ産業です。
震災から22年が過ぎましたが、大きな被害を受けたにも関わらずケミカルシューズ産業が廃れなかったのは、同業界の共同組合である日本ケミカルシューズ工業組合の活動があったからです。
阪神・淡路大震災でケミカルシューズ産業は
神戸市長田地区のケミカルシューズ産業は、1909(明治42)年に、イギリスのダンロップ社のゴム工場を誘致したことに端を発します。以後、神戸市にはゴム工場が多数建設されるようになり、ゴム産業が盛んになります。1910年代後半なるとゴム靴が誕生。当時の靴の中では画期的な防水性から大ヒット商品になりました。そのゴム靴工場が神戸市長田区に集中し、地域産業を形成します。第二次世界大戦後は、材料をゴムから合成皮革に変えたケミカルシューズへと発展しました。
ゴム靴、ケミカルシューズともに原材料は生ゴムや石油などです。どちらも輸入頼みで、国際情勢や為替などに翻弄されます。産業構造は、製品改良を行なっても人件費の安い国々がすぐに大量コピーしてしまい、収益改善がままならないという悪循環にありました。それらによってケミカルシューズ産業は幾度となく苦境に立たされましたが、そのたびにケミカルシューズ業界は共同組合を団結して、危機を乗り越えてきたのです。
その危機の中でも最大級と呼ばれたものが、阪神・淡路大震災でした。長田区にある日本ケミカルシューズ工業組合加盟192社のうち、158社が社屋や工場の全半壊・全半焼を被ります。さらに、関連企業約1,600社のうち約80%が全半壊または全半焼となりました。被害総額は3,000億円に及びます。
復興に必要だったのは、企業の意識改革だった
長田区のケミカルシューズ産業は、大きな工場だけで生産が完了するものではなく、裁断、縫製、糊引、加工というように下請けによる分業体制になっており、町工場のような小規模な企業が多数存在しました。それらの町工場は路地裏までに張り込み、まさに職と住が混在する町だったのです。そのような業界構造ため、メーカーの工場が再建されただけでは、ケミカルシューズ産業は復活できません。下請け企業が立ち直るには、かなりの時間がかかります。震災被害で社屋を失い、廃業する業者も多くありました。
震災前年となる1994年の日本ケミカルシューズ工業組合の生産額は659億でしたが、震災の起きた1995年は、285億円にまで落ち込みます。この震災被害による供給量の低下で、安価な外国製品の流入が加速しました。
苦境に立たされたケミカルシューズ産業でしたが、震災から4カ月後となる1995年5月、日本ケミカルシューズ工業組合が関係団体や神戸市に呼びかけるかたちで「ケミカルシューズ産業復興研究会」を発足し、地場産業復興への取り組みを始めます。1999年には復興支援として、くつのまちながた神戸株式会社を第三セクターとして設立。翌年にくつのまちながた神戸は商品開発や販路開拓などの一環として、JR新長田駅北側にメーカーのアンテナショップなどが入る「シューズプラザ」をオープンしました。
アンテナショップとして設立されたシューズプラザは、今まで受注生産と分業体制で成り立っていた業界に対して「自社でデザインしたものを自社で販売する」という意識改革を起こしたのです。最初は戸惑う企業も少なくはありませんでしたが、老舗企業が率先することで業界の意識改革は徐々に進んでいきました。
これらの復興支援により、シュープラザをオープンするころには、日本全国の生産額も500億円台までに回復します。しかし2008年以降はリーマンショックや安価な海外製品の影響により生産額が再び減少に転じて、2015年には300億円台に落ち込みます。
生産が再び落ち込み始める中での変化とは
震災だけでなくリーマンショックや海外製品などの影響を受けたため、組合の復興支援は決して全員が一枚岩になった取り組みではありませんでした。
ケミカルシューズ業界は細かな分業体制だったため、それぞれの企業で復興への考え方が違っていたのです。復興支援の1つであった商品開発は、発注元であるメーカーが縫製など分業の一部を中国など人件費の安い海外へ依頼。製造から、デザインや設計といった商品企画に転業する業者もありました。商品開発の形態も震災後に様変わりしたのです。長田区の街並みも、震災前の路地裏まで工場と住宅が入り組む下町の景色から、復興後は整然と家が建ち並ぶ新興住宅のように変わりました。
一方の販路開拓という復興支援でも、企業ごとに多様性を見せています。自社ブランドを確立して百貨店に店舗を出店する、通販サイトを活用するなどの変化が見られます。そのため、アンテナショップであるシュープラザへの出店数が減少しました。
世界的な不況でも構造改革を可能にした精神
テナントの減少から2017年春にシュープラザは売却されることになりました。そして2017年でくつのまちながた神戸は解散する見通しとなっています。震災前は製造業中心だった長田区のケミカルシューズ産業は、自社ブランドを確立し、百貨店や通販という新しい販路を切り拓くようになり、第三セクターによる復興支援は終ったという判断がくだされたのです。
日本ケミカルシューズ工業組合は、震災前年となる1994年の生産額は659億8,700万円で、組合員数226社、従業員数6,444名でした。20年経った2014年は生産額391億9,400万円で、組合員数89社、従業員数2,639名です。生産額は減少し、復興は志半ばに見えます。
しかし従業員1人における生産額では1994年が1,024万円に対し、2014年は1,485万円と上がっています。安価な外国製品と勝負するのではなく、品質やデザインで個性を確立したことが大きな理由です。2014年には靴のブランド名として「神戸シューズ」がシューズ業界初となる地域団体登録商標を受けました。
神戸市長田区のケミカルシューズ工業組合のウェブサイトには、時代の変化に合わせて職人技に最新テクノロジーをミックスするという決意が書かれています。阪神・淡路大震災に見舞われたにも関わらず、長田区からケミカルシューズ産業の火が消えなかったのは、この精神にもとづいて業界の意識を変革させたからでしょう。
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http://www.hyogokccj.org/uploads/2016/12/3119a50f4f0fd52f938f07dc9db439cd2.pdf
https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/03/rensai/199808/0005609931.shtml
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