2017.02.13 (Mon)

将軍様のお気に入り~全国の逸品をたどる(第4回)

派手好きの将軍もご満悦、兵庫の縁起物「高砂染」

posted by かみゆ歴史編集部

 江戸時代、各藩から将軍や朝廷に差し出された献上品。地元の特産から選りすぐったその品々は、藩にとって自慢の逸品でした。この連載では、そんな逸品の中から今に伝わる「将軍様のお気に入り」を、当時のエピソードとともに紹介していきます。

 今回紹介するのは、世界遺産に登録され、世界中から観光客を集める姫路城のお膝元で誕生した染物「高砂染(たかさごぞめ)」です。

縁起の良い文様に彩られた伝統の染物

 高砂染の「高砂」とは、兵庫県姫路市の東に位置する高砂市の名所「高砂神社」に由来します。高砂神社には、雌株と雄株の2本の松が寄り添って生えている「相生(あいおい)の松」が奉られています。その姿は、1つの根から2本の松が立っているように見えます。このことから、夫婦が深く結ばれ、ともに長く生きることの象徴であり、能や謡曲の題材としても親しまれています。

 この相生の松は、縁起が良い「吉祥文様」としても知られ、さまざまな工芸品にも用いられています。高砂染も、この模様を取り入れた工芸品の1つ。深みのある藍や黒色で染め出した布地に、相生の松をそのまま描くのではなく、松の枝を網目のように張り巡らせているのが特徴です。

 この高砂染の起源については、現在の姫路城を築城した池田輝政が、高砂地域の産業奨励として売り出したとするものと、姫路で染物屋を営んでいた相生屋勘右衛門が創始したとするものの2説があり、誕生した時期も創始者もはっきりと分かってはいません。しかし姫路と高砂は、どちらも姫路藩の藩域であり、この地域で生まれたことは確かです。

赤字の藩の財政立て直しに貢献

 当時の文献をさかのぼると、江戸時代中期の1749年に「高砂染」の文字が初めて確認できます。実はこの年、上野前橋藩(現在の群馬県)の藩主であった酒井忠恭(さかいただずみ)が姫路へと転封しています。当時、酒井家の財政は悪化の一途をたどっており、立て直しを図っての転封でした。

 姫路藩の史料『姫陽秘鑑(きようひかん)』によると、忠恭が姫路へと向かう際、太田伊兵衛という人物が道中のお供をしました。伊兵衛が忠恭を姫路まで送り江戸へ帰る際、忠恭から褒美として「高砂染二重二反」を頂戴したと記されています。高砂染が下賜される記述は、他の史料にも見られ、当時は酒井氏が家臣へと贈るものだったようです。

 幕府への献上品などが記された『武鑑』という史料によれば、幕府に初めて高砂染が献上されたのは1791年のこと。この背景には、酒井氏4代にわたって仕え続けた家老・河合寸翁(かわいすんのう)の存在がありました。1787年に家老となった寸翁は、困窮する酒井家の財政再建のため、質素倹約令を敷き、新田開発をするなどの政策を次々と打ち出します。

 その中でも、特に成功したのが特産品づくりでした。姫路藩を流れる市川・加古川の流域は良質な木綿の産地として知られており、寸翁はこれを藩の専売制とすることで、財政の立て直しに多大な貢献をしました。そして、木綿で作られた高砂染を、地域の特産品として全国に広めていきました。将軍家へと献上したのも、その一環だったようです。

 当時の将軍は、派手好きで知られた11代将軍・徳川家斉。家斉は、生地の縦横に松の枝模様が細やかに、時には大胆に巡らされる高砂染を、さぞ気に入ったことでしょう。『武鑑』にはそれから幕末に至るまで、高砂染が継続して献上されたことが記されています。

昭和期に途絶えるも、モダンなアレンジで復活

 高砂染は江戸時代が終わり、明治時代を迎えてからも存続していきましたが、大正時代になると安価な類似品が台頭。昭和初期にはほとんど見られなくなり、長く「幻の工芸品」とされてきました。

 しかし近年、この高砂染を復活させようとする取り組みが行われています。伝統的な染めの手法を取り入れながらも、普段の生活の中で使えるよう、ハンカチや風呂敷型のバッグ、ワンピースなどにアレンジしています。男女ともに使えるものから、モダンな印象を与える女性向けの商品まで多彩です。

 生産数が少ないため流通は限られてはいますが、高砂市のお土産屋などで購入できます。姫路近辺に出張の際、時間に余裕があれば、ぜひ高砂市に寄ってみてはいかがでしょうか。

かみゆ歴史編集部

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