江戸時代、各藩から将軍や朝廷に差し出された献上品。地元の特産から選りすぐったその品々は、藩にとって自慢の逸品でした。この連載では、そんな逸品の中から今に伝わる「将軍様のお気に入り」を、当時のエピソードとともに紹介していきます。
今回ご紹介するのは、駅弁でもお馴染み、富山県の「ます寿司」です。
人気の駅弁・ます寿司のルーツは1000年前
行きの電車の腹ごしらえに、帰りの電車のご褒美に。出張の楽しみといえば「駅弁」という人も少なくないのではないでしょうか。
今回ご紹介する富山県の「ます寿司」は、そんな駅弁の定番ともいえる商品。丸い容器に入った寿司をケーキのように切り分けて食べるのが特徴的で、蓋を開けると食欲を誘う酢の香りがほのかに漂います。寿司を包む深緑色の笹の葉をめくるたび、桜色のますが姿をあらわし、そのコントラストが目にも鮮やか。脂がのったますの甘味と酢の酸味が絶妙で、あっという間に平らげてしまうという人もいるかもしれません。
ます寿司のルーツは古く、1000年以上も前に遡ります。それを示すのが、平安時代の中期に編纂された律令制度の法令集『延喜式』です。ここには諸国から朝廷への献上品をまとめた項目があり、越中、つまり富山からは「鮭鮨(さけずし)」が献上されたと記されています。この鮭鮨が、ます寿司の元となったといわれています。
さけもますも、富山県を流れる神通川で獲れる魚。さけとますには明確な区分がなく、見た目も似ているため、この鮭鮨にはますも使われていたのではないかという説もあります。また、鮨といっても当時は酢が一般的ではなく、「なれずし」という米と魚と塩を長時間かけて乳酸発酵させたものでしたが、長期保存ができるように加工した魚を米と一つにして食べるという、その原型はみてとることができます。
脂ののった魚が獲れる神通川と、流域に広がる豊かな水田という環境が生み出した食文化だと言えるでしょう。
吉宗が絶賛し、代々の献上品に
このように、富山では古くから魚が名産として知られていました。1640年に加賀藩の支藩として富山藩が誕生し、前田利常の息子・利次が富山城主となった際には、さけ、ます、あゆを幕府への献上品とすることを定めています。
現在の押し寿司という製法になったのは、富山藩三代藩主・前田利興の頃。明治時代に編纂された富山県の史料集『越中史料』の第2巻によれば、1717年、料理の腕に秀でた藩士・吉村新八が、塩漬けしたあゆを使ったあゆ寿司を利興に献じたところ大変気に入られ、利興は新八にあゆ・ますのすし漬け役を命じます。
この製法で作ったます寿司を当時の将軍・徳川吉宗に献上したところ、吉宗もまたこれを絶賛。吉宗といえば、財政を建て直すため、1日2食で過ごした倹約家ですが、実は食通でもありました。特に魚の味にはうるさく、ひとくち食べただけでその良し悪しが判断できたといいます。その吉宗に認められて以来、ます寿司は富山藩主から将軍家への代々の献上品となりました。
富山藩士・小柴直秋の日記には、これを食べた吉宗がその漬け方を利興に訪ねたことが記されています。はじめて食べる美味に心を打たれ、興奮気味に訪ねた姿がうかがえます。
郷土料理を駅弁とした先駆け
このように、ます寿司は将軍家への献上品だったため、当時はなかなか庶民が食べられるものではありませんでした。一般に広がっていったのは、江戸時代末期から明治時代初期のこと。千歳という川魚料亭が旬の風物詩として提供をはじめたことで、越中の庶民に親しまれるようになりました。ちなみに、千歳は現在、料亭からます寿司メーカーとなっており、当時の味を楽しむことができます。
一方、駅弁としての販売をはじめ、全国に広めたのは「源(みなもと)」という業者です。今からおよそ100年前の1912年、富山駅前で「ますのすし」を販売しました。今となっては駅弁といえばご当地の味を楽しめるのが醍醐味ですが、当時はおにぎりや幕の内弁当が主流で、郷土料理を駅弁とするのは珍しかったといいます。源は現在もます寿司メーカーとしては最大手で、画家・中川一政による力強いますの絵を配したパッケージは一度は見たことがあるのではないでしょうか。
源や千歳のほか、富山県には現在40ほどのます寿司製造業者があります。どれも当時の製法を守りながら、塩漬けの加減や酢の風味は一つとして同じものはなく、個性豊か。ぜひ、吉宗も味わったます寿司に舌鼓を打ってみてください。
連載記事一覧
- 第3回 ルーツは1000年前!駅弁でおなじみの富山「ます寿司」 2017.01.12 (Thu)
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