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河井継之助を恨んだ米百俵の小林虎三郎
勇ましさに流された
長岡藩

このコラムでは、人気歴史作家・加来耕三氏が、中小企業経営で失敗しないための教訓を、歴史の断片を切り取って解説します。

今回は、幕末の長岡藩の失敗です。長岡藩は、藩祖より「常在戦場」、いつでも戦場にいる心構えで事をなすという気風にあり、江戸時代、近代に入っても優秀な人材を輩出しました。

今回加来氏が取り上げた、ガトリング砲で有名な河井継之助と「米百俵」の小林虎三郎がその代表格です。ところが幕末から明治にかけて、長岡藩は苦しい状況に追い込まれました。何を掛け違ってしまったのか。加来氏はこのストーリーの中で、人が勇ましい主張、感情論に押されてしまうことの恐ろしさを指摘しています。

中堅・中小企業ラボ所長の伊藤暢人からも、事業存続の難しさなど、長岡藩の失敗から経営のために何を見いだすべきか、そのヒントを提示します。

  • 加来耕三のプロフィール画像
  • 加来耕三
    かく・こうぞう

    1958年大阪市生まれ。奈良大学卒。歴史家・作家。『英雄たちの選択』『その時歴史が動いた』(いずれもNHK)、『世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリー』(TBS)などに出演。著書に『1868──明治が始まった年への旅』(時事通信社)、『加来耕三の戦国武将ここ一番の決断』(つちや書店)など多数。

謙信以来と
敬慕された英傑

  •  文政10年(1827)正月元旦、今日なお、賛否両極端の幕末の英傑・河井継之助(つぎのすけ)が越後長岡(現・新潟県長岡市)に生まれている。家は代々、越後長岡の藩士で、120石を拝領。父・秋紀(あきとし)は、藩の勘定頭を務めていた。温雅な、風流人であり、継之助はこの父よりもむしろ、母を恐れたといわれている。その教養も、母の感化によるところが大きかったようだ。
  •  継之助の少年時代に、次のようなエピソードが伝えられている。
     馬術を三浦治郎平に習っていたのだが、あまりにも乱暴に馬を乗り回すので、師の三浦が、
    「そのような乗り方では、法にかなっていないから、早々に改めるべきだ」
     と注意したところ、継之助は、
    「乗馬は駆けるすべと、止めるすべさえ弁(わきま)えておれば、それでよいのです」
     と答えたという。
  •  生来、強情で人に負けるのを極端に嫌った彼が、志を立てて江戸へ出たのは嘉永5年(1852)の秋のこと。江戸では古賀茶渓(さけい)の「久敬舎(きゅうけいしゃ)」で漢学を学び、海外事情の研究を始めたものの、翌年の6月、ペリーが日本へ来航した。
  •  継之助は当時、老中の要職にあった藩主・牧野忠雅(ただまさ)に、藩政を論じた献言書を上呈し、この献言書がのちに、継之助をして藩政に参与させる端緒となった。
  •  彼は新知30石を給されて、藩の御目付格評定方随役となり、一度は上司と合わずに辞職。後世に「日本のケインズ」と呼ばれることになる財政家、備中国松山(現・岡山県高梁市)の山田方谷(ほうこく)に財政再建策を学び、長崎に遊学して、文久元年(1861)に長岡へ戻った(前年とも)。慶応元年(1865)、郡奉行に登用され、翌年には町奉行を兼ね、慶応4年(1868)には家老から家老上席へと昇進している。
  •  継之助は鋭意、藩政改革に尽くしたが、そのうちの顕著なものに、賭博の禁止、遊郭の廃止、河税(信濃川の通行税)の廃止、寄場の新設、兵制の改革などがある。
     わけても藩内禄高の改正には、目を見張るものがあった。継之助は、
    「1000石の士といえども、君に報ずるところは首1つ。100石の士の君に報ずるところも、また首1つである」
     といって、2000石は半減して1000石に、30石は加増して50石とした。
  •  これは武士としての矜持(きょうじ)を失った上級藩士に活を入れ、軽輩者にはやる気を起こさせることが目的であったが、一応の成果はあがったようだ。
  •  慶応3年(1867)10月、徳川15代将軍慶喜が政権を朝廷に返上し、12月には王政復古の大号令が発せられた。
  •  継之助はこうした政局の中、
    「朝廷、旧幕府のいずれに与(くみ)することなく、人道の義理に徹し、譜代大名たる牧野家こそが、公・武の間を周旋し、内戦の勃発を阻止すべきだ」
     と説いた。
  •  慶応4年正月3日、鳥羽・伏見に轟(とどろ)いた砲声は、5月に入り北越戦争となって、中立を堅持する継之助の努力も空しく、長岡藩を戦火の中に巻き込むこととなる。
  •  5月2日、官軍=東征軍が長岡を隔てる四里の地・小千谷(おぢや)に迫ってもなお、継之助は官軍本営に乗り込み、率直に中立を表明する。官軍からは献金や出兵の要請がなされるが、ことごとくを辞退したい、と掛け合った。しかし、それらは容(い)れられるはずもなく、翌3日、ついに長岡藩は官軍と対峙(たいじ)することとなる。
  •  この北越戦争に、7万5000石の小藩が4カ月余りも、官軍の攻撃を耐え得たのは、一(いつ)にかかって継之助の優れた統率力と用兵にあった、といっても過言ではあるまい。継之助は流弾によって肩と脛(すね)を貫かれ、再起を期して会津に通じる八十里峠を越える途中、
    “八十里こし抜け武士の越す峠”
     と自嘲しながら、8月16日、ついに帰らぬ人となる。ときに42歳であった。

後半は「米百俵」の
小林虎三郎登場。
ここに長岡藩の失敗が潜む…

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  • 【勇ましさに流された長岡藩】
  • 「米百俵」の小林虎三郎は、「五間梯子」の藩旗の下、北越戦争で奮闘するも、結局、官軍に負けた河井継之助を恨んだ

米百俵の真実
――小林虎三郎

  •  さて後世、作家・山本有三(ゆうぞう)の手による珠玉の戯曲『米百俵』において、主人公に擬された長岡藩の大参事・小林虎三郎は、継之助より1歳の年下。
     官軍との戦いに反対したが容れられず、長岡城下が3度の戦火を受け、ついに謝罪の文を官軍側へ送って、無条件降伏するに及び、その後の長岡藩の仕置をまかされる。
  •  官軍に刃向かって“国賊”となった長岡藩は、石高を一気に2万4000石に削られるなど、徹底した意趣返しを受けた。実収は5分の1となり、藩内は焼け野原。その一方で藩は、戦死者の遺族、戦傷者とその家族の面倒もみなければならなかった。
  •  総責任者=大参事となった虎三郎にすれば、
    「だからいったではないか――」
     と戦死した継之助を、罵倒したかったに相違ない。が、この大参事は、周囲に表だった愚痴をいわず、黙々と己れに課せられた職責を果たした。
  •  虎三郎の意志の強さは、幼いころ疱瘡(ほうそう、天然痘)にかかって左目を失明したおりに実証済みであったといえる。めげることなく学問に打ち込み、江戸に出て佐久間象山(しょうざん、ぞうざん とも)の塾に学ぶや、長州藩の吉田松陰(寅次郎)と共に、門下の“二虎”と呼ばれるまでになった。
  •  戊辰戦争のおりは病床にあったが、藩はこの男に“国賊”長岡の再建を託したのである。
  •  藩士の家族は白米はむろんのこと、三度のおかゆにすら満足にありつけず、その惨状を見かねた支藩の三根山藩から、米百俵が送られてきた。
    「これで一息つける」
     と喜んだ藩士たちに、虎三郎はこの百俵で学校を建てる、と宣言した。
     藩士たちは何を悠長な、まずは食べることではないか、と非難したが、虎三郎は動じない。先の山本の戯曲では、次のような言葉へとつながっていた。
  • 「――人物がおりさえしたら、こんな痛ましい事は起こりはしなかったのだ。(中略)おれのやり方は、まわりくどいかもしれぬ。すぐには役にたたないかもしれぬ。しかし、藩を、長岡を、立てなおすには、これよりほかに道はないのだ」
  •  ――ここが、重要であった。
  •  虎三郎は勇ましい主張、感情論に押されて旧幕府にも官軍にも付かず、中立を藩是と決した長岡藩を、心底から恨んでいた。河井継之助への愛憎といってよい。冷静沈着に物事を考える人間が多数いなかったことが、虎三郎には悔やまれてならなかったのだ。
     換言すれば、彼の創ろうとした学校は、リベラルで先行きの見通しのきく、バランス感覚のある人材を育成する学校であったといえる。
  •  では、その後、虎三郎が建てた学校はどうなったのか。後身は、旧制長岡中学校であり、帝大の総長をはじめ、幾多の人物を各界に輩出している。
  •  だが、ここで注目すべきは、そうした卒業生の中に、太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官・山本五十六(いそろく)がいたことである。
     五十六はときの近衛(このえ)文麿(ふみまろ)首相に、
    「1年や1年半は存分に戦ってみせるが、そのあとの責任はもてない」
     と公言しつつ、開戦ヘ踏み込んだ。
  •  後年、最後の海軍大将となった井上成美(しげよし)は回想録でいう。
    「あの時、山本さんが戦争しても日本は敗れます、とはっきりいっていれば、日本は開戦にはいたらなかったであろう」
  •  山本五十六の言動は、幕末の河井継之助と何処(どこ)が違うのであろうか。酷似したものであったとすれば、小林虎三郎が求めた“米百俵”の理想は、本当の意味で成就したといえるのであろうか。
  •  歴史を部分=「点」で捉えてはいけない。前後をもった「線」でつなぐと、見えないものがみえてくる。結局、中庸を行くリベラリズムを、長岡(ひいては日本)は持てなかった、ということになる。誰しも、耳障りの言は吐きたくはないであろう。聞こえのよいことを発言した方が、格好がいい。
     だが、現実の過酷さ、厳しさは、一時を誤魔化(ごまか)しても、そこから逃れることはできないものだ。
  •  よく会議で発言せよ、と発破をかける経営者がいるが、これなどはものごとを「点」でしか捉えていない適例であろう。「線」でつないだならば、「反対意見を発言せよ」というべきである。これは、ほんの一例にすぎない。
  •  小林虎三郎は明治10年(1877)8月24日、50歳でこの世を去っている。

挿絵:中村麻美

中堅・中小企業ラボ イトー所長の眼

社長の覚悟と決断が、
100年経営を実現する

 歴史を縦に見たとき、長岡が生んだ3人の男性の生きざまには考えさせられるものがあります。1人目は、中立を主張しながらも、世の流れに逆らい切れずに官軍との戦いに巻き込まれ、結局は敗軍の将となった河井継之助。2人目は、敗戦により厳しい財政を強いられる中、支藩から贈られた米百俵で人材育成のために学校を建設した小林虎三郎。そして3人目は、その学校で学びながらも、第2次世界大戦の開戦を当時の政府に思いとどまらせることができなかった山本五十六。

 こうしてみると、小林が設立した学校は、今風に言えば、世の流れに立ち向かい長期的な視点で判断し、「ノー」と言える人材の育成を狙ったはずです。しかし、学校設立から70年ほどの間でその目的は風化してしまったのか、第2次世界大戦開戦につながりました。

 70年後と言えば、2~3世代後ということになります。当時の苦労話を直接知る者がいなくなり、開校時に掲げた理想や目的が薄まってしまったのではないでしょうか。

 企業も同じです。同族経営の会社で、2代目の経営者に会うと、「100年企業を目指したい」という話をよく聞きます。これは、創業者が30~40年ほど経営し、後を継いだ自分が10年あまり社長を務めていると、次の代かその次の代には100周年を迎えそうだ、ということが見えてくるからだと思います。しかし、代が進むにつれて創業時の理念は薄まり、そして市場環境は大きく変化してしまいます。「変えるべきことを変え、変えるべきでないことを守る」ことが経営の要と言われますが、まさにその見極めが、経営者にとって必要となるわけです。

 他社は何を守り、何を変えていったのか、様々なケースを見ながら学ぶべきところでもあります。

伊藤暢人のプロフィール画像

伊藤暢人
いとう・ながと

日経BP総研
中堅・中小企業ラボ 所長

広島県出身。1990年に東京外国語大学を卒業し日経BP社に入社。新媒体開発、日経ビジネス、ロンドン支局などを経て、日経トップリーダー編集長に。2017年、中堅・中小企業ラボの設立に携わり所長に就任した。幅広い業界の中小企業経営に詳しく、経済産業省や東京都などが主催する賞の審査員を歴任。

ラボ概要

2017年4月に本格的に稼働した「日経BP総研 中小企業経営研究所」は18年4月に「日経BP総研 中堅・中小企業ラボ」と所名を変更し、中堅・中小企業の成長と経営健全化を支援するために活動を進化させています。これまで培ってきた経営・技術・生活分野での見識を活かし、情報発信や調査、教育、コンサルティングなど様々な形でサポートします。

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