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武州江戸、悲劇の名将
下剋上に踏み切れなかった
太田道灌

このコラムでは、人気歴史作家・加来耕三氏が、中小企業経営で失敗しないための教訓を、歴史の断片を切り取って解説します。

今回は、太田道灌の失敗です。道灌は、のちの平城の模範となる江戸城を今の東京に築城したことで知られています。室町時代後期、関東内の勢力争いで数々の武功を立てたことでも有名です。しかし彼は、主人筋に暗殺されるというあっけない最期を迎えます。

加来氏は「道灌は、下剋上をしないのであれば、身の安全を考え、一刻も早く隠退の生活を選ぶべきだった」と指摘します。戦国時代初頭に、彼はなぜ下剋上に踏み切れなかったのか、加来氏が解き明かします。

中堅・中小企業ラボの伊藤暢人所長からも、太田道灌の失敗から何を見いだすべきか、そのヒントを提示します。

  • 加来耕三のプロフィール画像
  • 加来耕三
    かく・こうぞう

    1958年大阪市生まれ。奈良大学卒。歴史家・作家。『英雄たちの選択』『その時歴史が動いた』(いずれもNHK)、『世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリー』(TBS)などに出演。著書に『1868──明治が始まった年への旅』(時事通信社)、『加来耕三の戦国武将ここ一番の決断』(つちや書店)など多数。

利発すぎる子

  •  室町時代の中頃、関東の地は古河(こが)公方(くぼう)と堀越(ほりごえ)公方、それに関東管領・上杉氏の3者が、三つ巴(どもえ)の戦いを繰り広げていた。
  •  なかでも両公方の執事にすぎなかった上杉氏は、「管領」を僭称(せんしょう)するまでに勢力を拡大。さらにはこの上杉氏は、4つに分裂した。事実上、最強の山内(やまのうち)上杉氏に、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏がつづく形となった(詫間<たくま>は山内に追随し、犬懸<いぬがけ>は滅亡する)。
  •  ところが扇谷にあって、家宰を務めた太田道灌(どうかん)の才覚が、ずばぬけていたことから、上杉氏ひいては関東の勢力図が大きく塗り替えられることとなる。
  •  永享4年(1432)、相模国(現・神奈川県の大半)に太田資清(すけきよ)の長子として生まれた道灌は、幼名を鶴千代、元服して持資(もちすけ)、資長(すけなが)と称した。「道灌」は、47歳で入道してからの号である。生来、利発すぎる子供であったようだ。
  •  あるとき、あまりに才気走る鶴千代時代の道灌を、父・資清が訓戒した。
    「よいか、昔から智ある者は偽りが多いという。偽りの多い者は、とかく禍(わざわ)いをこうむるものじゃ。人は真っ直ぐであるのがよい。たとえば、障子のようなものだ。真っ直ぐゆえに立つ。曲がれば立たぬ」
  •  それを聞いた鶴千代は、部屋を出ると屏風を引きずって来たという。
    「父上、なれどこれをご覧下さい。真っ直ぐでは立ちませぬが、曲げればほれ、このように見事に立ちまする」
     資清は満面を朱にして激怒したものの、返答に窮してしまう。
  •  ――同様の話は、いくらでもあった。
  •  「驕者不久(おごるものはひさしからず)」と大書した軸を、床の間に掛けた父・資清が、鶴千代を呼んでその意味を問うた。鶴千代は返答の代わりに、
    「父上、その書に二字を、書き加えさせて下され」
     と言い、資清が許可すると、彼は「不」と「又」を書き入れた。
     「不驕者又不久」――驕らざる者も、また久しからず。
     激した資清が扇子で打とうとすると、鶴千代は素早く逃げてしまったという。
  •  無論、それだけでは後年の「太田道灌」は誕生しない。ここで見落とされがちなのが、その学識の高さであった。
  •  道灌は9歳から11歳まで、鎌倉五山の寺院で学問を修めていた。
    「道真(資清)の一男鶴千代丸(原文まま)とて、世に隠れなき童形あり。九歳の比(ころ)より学牕(がくそう)に入り、十一歳の秋迄終(あきまでつい)に不レ帰二父家一(ふかにかえらず)。学雪の功績で、五山無集(双)の学者たり」(『永享記(えいきょうき)』)
  •  一説に建長寺ともいわれるが、いずこであれ少年道灌が室町時代の中葉、京都五山に並ぶ、東の漢学のメッカ=鎌倉五山にあって学識を積んでいたことは、特筆に価する。当時の両五山は、今でいう総合大学といってよかった。
     学問を積んだ道灌は、康正(こうしょう)元年(1455)に24歳で家督を継ぐ。

道灌の力量を敵も味方も恐れた。その結果……

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  • 【下剋上に踏み切れなかった太田道灌】
  • 蒸し風呂にいる道灌を狙う刺客。道灌は実力で決着をつけられないまま、あえなく主人筋に暗殺されてしまうのだ

「当方滅亡」

  •  その頃、太田氏はまだ、武州の荏原(えばら)郡品川(現・東京都品川区)にいた。居館は御殿山(ごてんやま)辺りで、江戸に移したのは康正2年(1456)のこと――江戸城は1カ年で、ほぼ完成をみている。
  •  この城は、それまでの山城(やまじろ/山塞<さんさい>規模)の発想から大きく転換して、平地に自然の地形と人工の堀をうがち、土居(どい/土塁)を築いて、複雑な曲輪(くるわ)を組み入れ、防衛力を飛躍的に向上させた斬新な城であった。
     もっとも、この城は道灌の創始ではない。300年も以前から豪族・江戸氏が居城としていたもので、これを道灌が利用、独自に改築したものであった。
  •  やがて彼の名は、その工夫した江戸城とともに、京の都にまで知れ渡った。
     34歳で上洛した道灌は、ときの8代将軍・足利義政に、武蔵野の後進性を質されたおり、即興で歌を詠んでこれに応じた。
  •   わが庵(いお)は松原つづき海近く
         富士の高嶺(たかね)を軒端(のきば)にぞ見る
  •  もとより、歴代室町将軍の中で最も文化に造詣の深かった将軍義政は、歌心にあふれていた。のちの織田信長が、芸術の手本としたほどの人物でもある。道灌の和歌に義政は、武蔵野の贅沢(ぜいたく)な景色を想(おも)い、なるほど、と大きく頷(うなず)いたという。
  •  文武に優れた道灌の活躍で、古河公方の足利成氏(しげうじ)は、風前の灯火(ともしび)にまで追い詰められる。
     ところが山内・扇谷の両上杉氏の当主が揃(そろ)って病没。そこに京都を中心とした、応仁の乱が勃発した。
     さらに扇谷上杉氏を継いだ政真(まさざね)が戦死、山内上杉氏の家宰・長尾景信(かげのぶ)も病没し、関東管領の首脳部は事実上、総入れ替えとなってしまった。残留者は、道灌ただ一人となったわけだ。
  •  こうした状況の中、景信の子・景春(かげはる)が、叔父・忠景(ただかげ)に家宰の地位を奪われた、と叛逆(はんぎゃく)。管領方は、足並みに乱れが生じた。
  •  道灌はこの混乱を食い止めるべく、懸命に活躍する。
     ところが、その手際があまりにも良すぎた。人間はこぞって、生来、愚かな嫉妬という劣性を捨てきれないものらしい。
     道灌の示した力量と実績を、敵のみならず味方が恐れ、これを除こうと企てた。
  •  本来であれば道灌は、ここで“下剋上”に徹すべきであったろう。そうすれば、北条早雲が名を成すよりも早く、道灌は関八州を制圧できたに違いない。
     彼にはそれだけの力量、声望と実績、実力があったのだから。
  •  にもかかわらず道灌には、最後の思いきりがなかった。足許の曖昧さ、とでもいうのであろうか、これはやはり育った環境と理解すべきかもしれない。
     人間は生まれ育った環境――とりわけ、身についた精神性、生活習慣――からは、なかなか抜け出すことが難しい。
  •  元来、関東の覇王たるべき力量の持ち主でありながら、身分的には極めて中途半端な位置にあり、それを当人はよく知っていながら、実力で決着をつけるという、決断を遅らせてしまった。叛旗(はんき)を翻す――それができなければ、身の安全を考えて、一刻も早く隠士(世捨て人)の生活を選ぶべきであった。
  • 「――道灌謀叛」
     希望的観測も含め、噂がしきりと関東全域に流れる中、両上杉氏が結託した。
     文明18年(1486)7月26日、道灌は招かれた糟屋(かすや/現・神奈川県相模原市上粕屋)の、扇谷上杉氏の別館において、あえなく暗殺されてしまう。享年、55。
  • 「当方滅亡」(『寛永資武状<かんえいすけたけじょう>』)
     肺腑(はいふ)をえぐるがごとき道灌の、最期の言葉はみごとに的中した。
     道灌を失った扇谷上杉氏は、瞬時に機能を停止し、山内上杉氏との間では団結はおろか不和が表面化。両家の対立抗争は間断なくつづき、ついには両家ともに衰亡の一途をたどってしまった。

挿絵:中村麻美

中堅・中小企業ラボ イトー所長の眼

最も難しいのは
一歩踏み出すこと
名門同族企業で
新規事業が
生まれ難いワケ

 東京都庁のお膝元、新宿中央公園には太田道灌の銅像があります。江戸城を築いた業績をたたえているのかもしれませんが、駅から都庁までのにぎわいに比べると閑散としており少し寂しげにも見えます。

 幼い頃から優秀で、関東を治める力量を誰もが認める名君でしたが、その優秀さが起因したのか思い切って謀反を起こすことができなかった。それゆえ、暗殺という憂き目に遭ってしまったわけです。

 二代目、三代目の経営者でも、先代から引き継いだ事業が年々衰退しているにもかかわらず、新しい事業への進出を慎重に検討しすぎるあまり、タイミングを逸してしまうケースが時々見られます。名門の屋台骨を傾けるようなことはできない、これまで自分自身も真面目に仕事に向き合ってきた、こうした呪縛が新しい冒険に踏み出すことを躊躇(ちゅうちょ)させるのです。今、変化が激しいこの時代に、完璧な計画をつくろうとしても、その時間が無駄になることの方が多いのです。というのは、その間にも変化が進んでしまうからです。

 ですから、小さくスタートさせて、何度も顧客の声を聞きながら改善を重ね、ヒットにつなげる。失敗してもそこで得たものを次に生かす、というのが新規事業の進め方では主流になっています。その代わり、全資産を投入するような事業開発はなるべく避けて、小さな事業のタネを数多くまき、将来性のあるものだけを選んで伸ばしていくわけです。

 新事業の成功には、新しいシステムやICTの活用は不可欠となっています。様々な事例から、新しい挑戦に踏み切ることができたワケを見出してください。

伊藤暢人のプロフィール画像

伊藤暢人
いとう・ながと

日経BP総研
中堅・中小企業ラボ 所長

広島県出身。1990年に東京外国語大学を卒業し日経BP社に入社。新媒体開発、日経ビジネス、ロンドン支局などを経て、日経トップリーダー編集長に。2017年、中堅・中小企業ラボの設立に携わり所長に就任した。幅広い業界の中小企業経営に詳しく、経済産業省や東京都などが主催する賞の審査員を歴任。

ラボ概要

2017年4月に本格的に稼働した「日経BP総研 中小企業経営研究所」は18年4月に「日経BP総研 中堅・中小企業ラボ」と所名を変更し、中堅・中小企業の成長と経営健全化を支援するために活動を進化させています。これまで培ってきた経営・技術・生活分野での見識を活かし、情報発信や調査、教育、コンサルティングなど様々な形でサポートします。

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